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パッポン

東南アジア最大の歓楽街!!欲望渦巻く外道ワールド!!

パッポン
-花の色はうつりにけりないたずらに 我が身世に降る眺めせしまに-
 バンコク市内シーロム通りソイ・パッポンにある有名な歓楽街。タクシーには、一言「パッポンへ」と言えば連れていってもらえる。市内中心地にあるバンコク最大の歓楽街!
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 かつて、米ニューズウィーク誌に世界最高のバーと絶賛されたこともあるキングス・キャッスルをはじめ、バンコクで最高質の女の子を集めた最大の歓楽街パッポン、ここでは約20軒のゴーゴーバー(ストリップバー)、ショーバー、フェラチオバー、ソープランド、オープンバー、カクテルラウンジ、ディスコなど、男の求めるものをすべて集めた所だ。

 この狭い通り沿いで商売をする売春婦は、一説によると2000人もいるという。その数字にも納得できるくらい賑わっている。

 まず、ゴーゴーバーだが有名なキングス・キャッスル1・2・3を始め、キッス、リップスティック、スーパースターなどの店は、一定基準以上の女の子を集めている。そのレベル維持の方法は徹底した女の子への収奪の結果だろう。

 通常、パッポンのゴーゴーバーでは入店の基準や資格などは全くない、その気になれば、どんなブスやババアでもすぐに働ける。その代わりに生き残れる条件を厳しくしている、バーでの衣装(水着のような物)は、すべて買い取り制で働きだしてから一ヶ月内に衣装代を店に支払わなければならないが、この衣装代は20000バーツほどで給料3500バーツほどの彼女たちに支払うのは不可能。客を取って稼がないことには次の月は働けない、このようにして客のつかないブスは店を去っていき、かわいい子はパトロンの付くまで店にいるようになるので、自然とレベル維持の役割を果たしている。レベルの高い店ほど衣装の数が多いのはこのためだ。

 次にショーバーだが、これは呼び込みがうるさく「ミルダケ、ミルダケ、マンコショー」と道ばたでやっているのですぐに解るが、二階三階に店があり、全くの丸出しショーをしている店もあるので、旅行者は良くぼったくられているようだ。その店がキャッチバーかどうかを見分ける方法は、店をのぞいてみてあまりに客が入っていないのは危険!コーラ4杯で10000バーツの請求が来ることもあり知らない店は危険だろう、少なくともお勧めはしない。良く知っている人と一緒に行くとぼられないこともあるので最初は誰かと一緒に行こう。女の子の質は一階の店と比べると格段に落ちるが、丸出しなのでしょうがないか?

 フェラチオバーは、あまり知られていないがパッポンに2軒ある。ここの特徴はおばさん度100パーセントだろう。仕事が仕事なだけにしょうがないとも思うが・・・。しかし、おばさん達のテクは一級品でシャブルという行為にこれほどのバリエーションがあったかと思うほどだ。500バーツの価値はあると思う。

 カクテルラウンジは、ふつうのバーに女の子がいて、一緒にお酒を飲んでくれる。女の子のレベルはそこそこだがホテルまで連れ帰るかどうかは、交渉次第、ゆっくり飲むには良いところだ。

 オープンバー/ディスコは、フリーの売春婦や店がはねた女の子が客を捜して集まっている、普通午前2時から賑わい出す。あるいはここで女の子を捕まえるのが一番安上がりかもしれない。

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ケンさんからの情報:
パッポンの遊び方・・・ナナやカーボーイもいいけどパッポンもいいです。安く済ませたいならナナやカーボーイだと思います。パッポンは金を出せば金を出すほど楽しくなることに気づきました。金を出すほどにルール違反の遊び方も許容される寛容さがあると思いました。東南アジア一の歓楽街といわれる所以ですかね。金を出せば出すほどといいましても、伝票のチェックはしっかりしてください。どんなに酔っ払っても、注文したビールとコーラの数と伝票一枚一枚の値段は常にチェックしてください。そして飲んでる合間に、現在の使用金額を知るために中間会計をキャッシャーに指示してください。中間会計の伝票はホッチキスと留めさせましょう。そしてママさんに計算機を持って来るように指示したら、ご自身で伝票の束を計算してください。キャッシャーはだいたい300バーツくらいは余計に請求してるはずです。そしたらママさんに対して毅然とした態度で間違いを指摘してください。飲み過ぎて多額に膨れ上がった正規の料金は支払うが不正は許さないという姿勢を示すことが舐められない秘訣です。中間会計を何度かしましたが、毎回余分に請求されているはずです。計算機片手に毎回それを指摘するのは楽しい遊びです。
店内でルール違反の遊びをしながらお気に入りの女の子数人に浴びせるほどコーラを飲ませ、もう飲めないというくらいにまで飲ませたら勝ちです。お気に入りの女の子たちのコーラ攻撃に対しては、吐きそうになるくらいにまで飲ませる逆コーラ攻撃で反撃しましょう。きっと好き放題のワガママなルール違反の遊び方をしても許されるはずです。用心棒が出てきたら1000バーツ渡してセブンイレブンにマイルドセブンスカイブルーを一箱買いに走らせてください。用心棒もお釣りの900バーツ強をポケットに入れてハッピーです。
閉店後の店内ミーティングで、お気に入りの女の子がマネージャーから本日のMVPとして表彰されてボーナスを貰う姿を見るのは感無量です。パッポン大好きです。現金が法律のパッポンはわたしたち先進国に済む人間のオアシスです。
みんなでパッポンへ行こう!(2011年11月16日)

ばぶさんからの何の因果かマカプーチャ情報:
ナナ・ソイカ壊滅。2/18はマカプーチャ。わかっちゃいたけどマカプーチャ閑古鳥承知の上で珍しいもの見たさで巡回案の定このとおり(画像添付)こうゆー状況でも、パッポン・タニヤは何事も無かったかのよう(2011年2月22日)
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煩悩堂さんからの情報:
パッポンの、少なくともキング系はテーブルに灰皿がおいてあり、喫煙可能のようです。(2010年8月18日)

アメージングバンコクのZさんからの情報:
パッポンのキングキャッスルグループのキングキャッスル1,2,3がお客の減少に歯止めを掛ける為に、ハッピーアワーを設けました。なんとPM10時までビール50Bです!半額です。これは値打ちがありますね。ソイカーボーイでもハッピーアワーを設けてる店が多いですが、PM8:30までの店ががほとんどですから。(2010年2月2日)

ストアMAX さんからの情報:
今年1月の下旬~2月上旬と3月下旬~4月上旬までタイバンコクへ遊びに行きました、パッポンで初めてピンポンしょうへ行きました、タニヤの女性に招待され女4人男1人で入りました、女性器にピンポンやバナナなど色々な物を出したり入れたり飛ばしたり・・・私は全く興味なかった・・席に座ったらすぐに店員が来て一人1000バーツと請求され5人分5000バーツ払わされびっくりした、その後やられたと思ったのもつかの間、すぐさま飲み物のリストを店員が持ってきた、フリードリンクと書いてあったのでみんなで1杯ずつビールを頼んだ、この店いきなり一人1000バーツ・・入る前にノーチャージ、ドリンク代だけといっていたのに・・・でも1000バーツ高いけど飲み放題だからまっいいか・・しかし店を出る時一杯だけフリーで二杯目からはドリンク代かかる・・頭にきて店員に声を荒げて言った店入る前ノーチャージしかしイスに座れば一人1000バーツおかしい・・店員は言った、ノーチャージしかしショーを観たからショーチャージがかかるとの事、明らかにぼったクリ・・よっぽど高くても興味有る人は楽しめるでしょうがあまり興味ない人は要注意・・もしくわ両手で目をふさいでショウを観なかったら多分ドリンク代だけでいい・・と思います、目には目を・・タクシーの呼び込みでシーフードとソープランドのぼったクリは良く知っていたがまさかピンポンショーでかもられるとはうかつでした・・今回10日間の旅で100万も使ってしまった。しばらく日本で自粛します。(2009年4月23日)

モンコンさんからの情報:
日本人のネットの蔓延の凄さを知ったか、最近はコーラ奢れ攻撃が無くなりつつある(エレクトロニック ブルー除)キングス キャッスル1、2は日本人にも優しくなったと感じられる。ビールも安いし、早い時間だとタバコ吸わせてくれる(2には相変わらず30代チビロリ猿いるが・・・)THIGH BARはタニヤの景気付けに最適かも。
 最近の傾向:パッポンの健全化・・・かつては女を求めてギラついた男達や、三度の飯よりファックが好きみたいな娼婦のメッカだったこの歓楽街も最近では大人しくなってしまった。徹底して金を追い求めたキングス・グループの女の子達はビジネスライクになりすぎ、”ロマンのあるオマンコ”を求めてここに来た男達は落胆することが多いようだ。通りには各国の観光客が集まり一見賑わっていそうだが、どの店も女連れで入っても気まずくないくらいに観光化され猥雑な雰囲気のしない健康的な風俗店と化してしまった。まるで北海道のアイヌ観光のような興味本意に覗きに行く程度の観光地になってしまうのは残念なことだが、これも時代の要請なのだろうか?・・・ウィチャイ社長(キングス・グループ総帥)あなたの目指したものは此だったのですか?


注意情報:パッポンの某有名ゴーゴーバーでボラレたとの投稿が幾つか届きました。これらの投稿を読みながらオレは考えてしまいました。
 まれにですが、以前からパッポンのゴーゴーバーでは、不慣れな観光客を狙って、不当に高い料金を請求することがありました。その多くは従業員数人がグルになっての内職で、組織的な犯罪行為では無かったと思います。(一部例外もありましたが)
 当然、”ボッタクリ=不慣れな外国人へ法外な金額を請求をして金を巻き上げる”と言う行為は許される事ではなく、事の善悪は論ずるまでもないでしょう。しかし、オレが納得出来ないのは、ボッタクリ被害者達はその不当に高い請求に対して、あまり抵抗や抗議をした様子がないのです。ただ「パッポンのバーでボラレた。悔しい!」だけなのです。何故、「マネージャーと話したい」とか「警察で話をしよう」と言えなかったのでしょうか?慣れない外国での言葉の壁と言う問題も理解は出来ます。しかし、どんなに意志の疎通が困難な相手でも”ポリス”の意味は通じるはずです。あまり抗議の出来ない日本人はボッタクリ内職従業員の標的にされやすいのではないのでしょうか?不当な請求に対してははっきりと抗議の意思表示をしましょう。抗議をしたからと言って、他の客も多く通りに面した一階のバーで危険な目に遭うことはないでしょう。パッポンにはツーリストポリスも常駐しています、不当な請求をされた時は迷わず訴え出ましょう。
tourist police tel:1699
 こう書くとなんだかパッポンは恐ろしい所みたいな印象を受けるかもしれないが、本当はぜんぜん大丈夫!オレは10年間一度もボラレた事が無いぞ!小金を持った気の弱そうな奴は狙われるみたいだけど、普通は大丈夫!パッポンでボラレたら”自分は気弱そうに見えるんだな・・・”と自覚しましょう。
 また、今回投書のあった数店は、元々明朗会計を売り文句にしてパッポンナンバー1の地位についたグループ店だった。以前と違い経営規模が大きくなった今は、末端まで監視が行き届かないのかもしれないが、もはやパッポンの顔のなった風俗店グループである、此処での評判がパッポン全体の評価になりかねない、再度従業員の教育と監視を徹底し猛省を期待したい。
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パッポン学校(Sさんからメールでパッポンについて教えてもらいました。ウーン、勉強になるなー)

パッポン物語
パッポンの名前と評判はみんな知っている。バンコク第一の歓楽街、また世界でも知られた赤線地帯である。しかし、ほとんどの人はその名前がどのように付けられたかを知らない。パッポンを作り有名にした中国系タイビジネスマンのパーソナルヒストリーを...。

この物語の主人公であるウドン パッポンパニッチは前月の10月始め、79歳でバンコクホスピタルで亡くなった。彼は巨万の富を稼ぎ出す帝国を残した。それは今彼の家族たちに引き継がれ経営されている。彼の死はパッポンの終焉の始まりだろうか?はたまた、より発展するために運命づけられたものなのだろうか?

今バンコクを訪れるほとんどの外国の人たちは自分の希望に関係なく、観光場所に組み込まれているせいか一度はパッポンを訪れる。そして、夜には何百万バーツのお金がたくさんの露店、カウンタバー、レストランへ流れて行く。もちろん売春にも...。パッポンではセックスが売られている。しかしその前に、食事代、酒代、ダンス、ロックミュージック、ビデオパーラの代金が補助経費としてかかっている。この儲けは大きい。

名前の由来
今からちょうど50年前、パッポンと知られるこのエリアは荒れた土地で、チーク材で作られた家が1軒しかない場所だった。この家はバンコクのホンコンと上海銀行の本店だった。そして1941年から1945年は日本憲兵隊に徴収されていた。どのようにしてこの静かなバンコクの片隅が世界の歓楽街の1つに成っていったのだろうか。とても興味深い。

パッポンと言う名はもともと中国のハイナン島の中で、通りや人名で見られる。ここは南国なまりでハイラムとして知られている南支那海の島で、移民が何百年の間、タイに流れて来ていた。商才のあるタエチウ、カントニーズやハッカと知られる南中国からの華僑と同じである。

ポーンパット少年12歳も他の中国人と同じく夢を求めてバンコクに今世紀初頭、バンコクにやって来た。ポーンパットはサラブリ県で米を商いとする会社で働き始めた。彼は地方の農家から薬草を買い、バンコクのチャイナタウン.ヤワラートの雇い主の元へ運んでいた。彼は将来を考えて若い中国娘と結婚する。そして、1916年長男が生まれた。その子の名前がウドンである。

そうこうしているうちに、ポーンパットへ人生の転機が訪れた。それは成長するバンコクの建築産業にセメントを供給するため、サラブリにセメント工場が出来たことから始まる。この賢い中国人はセメントの働きには炭酸カルシウムがいつも必要だとすぐに気づいたのだ。ポーンパットはこれがこの地方でも集められることを知っていた。この肥えた稲作地帯の数フィート下にあるのだ。そして彼はすぐに小さいサプライビジネスを始めた。

彼にとって幸運だったのは、このセメント工場がチュラロンコン国王(ラマ5世)が先導するロイヤルプロジェクトだったことだ。このプロジェクトが大きくなるにつれ、ハイナン島の移民のビジネスも大きくなっていった。そしてロイヤルファミリの知るところとなり、その功績に対してナイトの称号が与えられた。“クンルワンパッポンパニッチ”。後でこの名前はタイの新しいファミリネームとなって行く。

ハードワークと幸運にも恵まれて、 クン ルワンパッポンパニッチは彼の息子を最初はイギリスにそして次にアメリカへ留学させることが出来た。このため、ウドンは日本がタイへ侵攻した1941年にはタイの外、アメリカに居た。そこで彼はタイ自由化運動に参加し、日本のアジア侵略に反対運動を行った。そして1945年、彼は日本憲兵隊がシーロムの北部の例の家から退散した2,3ヶ月後に帰ってきた。

その土地と建物はホンコンと上海銀行には戻されず、1956年タイ政府によりオークションに懸けられた。ポーンパットはそこを当時59、000バーツ(約3、000ドル)で競り落とした。中国の何人かの友人にヤワラートからこんなに離れた土地を買うなんて頭でもおかしくなったかと言われたが、ポーンパットはそこをビジネスに利用するつもりはなかった。親戚家族が集って住む一角を作りたかったのだ。

この引退後の構想は彼の息子ウドン パッポンパニッチには理解されていなかった。ウドンはこれからのバンコクは大きくなり開発がこの一角まで伸びて来ると考えいたのだ。その衝突はポーンパットが彼の息子へスリウォンからこの区画までのつなげる道路を6メートルの広さでアレンジするよう命令したことから始まる。

ポーンパットはちょうどこの時フアヒンへ休養に出かけていた。彼は帰ってきて驚いた。ウドンは幅12メートルの道路を作っていたのだ。「あの時は父はとても怒って、私はもう家族から追い出されてしまうと思いましたよ。」当時を振り返ったウドンパッポンパニッチは語った。

ポーンパットが幾ら怒ってもしかたがなかった。もう広い道路が既成事実であるのである。彼はウドンにスリウォンから通りの終わりまで、両脇に店と家を兼ねる建物(ショップハウス)のアレンジをを任した。これがパッポンソーイ1である。しかしここが今の歓楽街に変わってしまうとは当時、誰も考えていなかった。バンコクには赤線地帯はすでに在ったし、怪しげな薄緑のランプが掛かっている青線地帯も、ヤワラートや他の所にも在った。

このとき、ウドンはこの地区のショップハウスに西洋ビジネスマンを呼びたいと考えていた。彼は賃貸の時、デポジットをたくさんとり、月家賃を少なくする中国式のやり方を止めて、最初のデポジットを少なくし、月家賃を高くした。中国式が西洋人に合わないと彼は留学の経験から知っていたのだ。

彼の西洋に合わせたやり方は成功した。まず、最初の客は小さな航空会社のパシフィクオーバ.シーエアサービスであったが、すぐにシェルオイル、アメリカンジェスターナ、日本航空が続いて入ってきた。そして日本との関係は1954年に強くなっている。このときタイを愛した旧日本兵によって「Mizu's Kitchen」がオープンしたのだ。

話を戻して、パッポンは航空会社がたくさん入ってきた。Civil Air Transport(CAT)、Air Vietnam、Air America(ここは後にチベットからインドネシアへの共産主義者の広がりを押さえるCentral Intelligence Agencyの所有となる。)などである。Air Americaでたくさんの合衆国兵士や冒険家たちがやって来た。そして彼らと共においしいワインや風俗業や歌なども入って来た。

セックス産業の始まり
パッポンにセックスサービス業が始まったのは1956年10月である。 Mizu's Kitchen 隣にバンコク オンセン マッサージパーラーが出来たのが最初であった。当時を知る記者や作家アランダウソンによれば、ここで働く女性の多くは日本人だったと言うことである。客は主に日本の移住者とタイ警察の将校だった。

1958年にはこのオンセンは無くなったが、このエリアにはすでにバーが並び西洋風の東洋レストランがいっぱいだった。それはパッポンが今の歓楽街に変わる始まりだった。

名前が知られるのは1966年にバーナードトリンクがパッポン地域を、本「バンコク世界」に“バンコクの不夜城“として、バーやレストランのリストを載せてからだ。小さいリストであったが、それによりパッポンは大きくなりバンコクの他の歓楽街を追い抜き、世界でも有名になっていった。

1960年代はピー.バー(お化けバー)の時代だった。お化けはバーで働く女たちを言う。彼女たちは全くバーから給料を貰わない。正式に雇われてはいないのだ。代わりに彼女たちは客たちに個人的サービスをしてチップを貰うのだ。しかし、お化けバーは減り始め、1960年終わりには給料制が始まり1970年の始めにゴーゴーバーが始まってから無くなってしまう。

パッポンセックス産業の成長はベトナム戦争と重なって始まった。それはビジネスとエンターテーメントの地域をバーを本拠地とする赤線歓楽地帯に変えてしまった。パッポンのソーイ1は1969年の終わりには5件だったバーが1970年代の終わりには、100件以上にもなり、それからも数は増え続けた。

その現象で、驚くこともないが、そこを借りていた航空会社や他の会社は、長期賃貸契約をしていたタイダヌ銀行以外は当然のことながら出ていってしまった。タイダヌ銀行も去年とうとう出ていった。そしてそこはゴーゴーバーに変わった。

これからのパッポン通り
ウドン亡き後もパッポン通りは今までのやり方で残り続けるのであろうか。パッポンパニッチ一族はまだこのエリア全てのオーナであり、ウドンの2人の妹ソムタウィンとブーンウィンが管理している。彼らは言う「私たち家族は団結しています。みんながお互いにうまくやっています。ウドンが亡くなっても今すぐにパッポンを変えることはありません。」

彼らが保証しても今のままでパッポンは残り続けることができるのであろうか。世界で有名なナイトライフエリアとして多くの観光客を呼び、年間に何百万ドルをタイ経済にもたらしている。しかし、エイズの時代の中、だんだんと社会の不平等を利用してセックスビジネスで儲ける害悪を気づく者が増え始めている。豊かになって行くタイでは急速にパッポンが時代錯誤で、国の悩ます物になって来ているのではないだろうか。

今のままでパッポンは続いて行くのかと言う疑問の答えは「Yes」とも言えるし、「No」とも言えるだろう。パッポンの稼ぎ出すお金が道徳や健全な社会へと言う意見を黙らせてしまう。しかし、この土地の価値を考えると変わっていってもおかしくない。50年前3000USドルで買われたこの土地は今や数百万ドルの価値がある。しかしパッポンの建物はウドンが1950年代に建てたままのショップも幾つかあるし、この地区にある多くが2階建てである。

高沸するシーロムの賃貸料で各店の財政はどれくらいあと持ちこたえることができるのであろうか。収支で考えればパッポンは今のかたちから変わらなければならない。それはバーやマッサージパーラがシーロムの会社組織に変り、全てが鏡のようなガラスとコンクリートで出来たバンコク.ウオールストリート.ビルディングに変わることかもしれないが...。

上と別の考えとして、再開発されるエリアのある部分は数階建てのエンターテイメント.モールになり、隣の日本エンターテーメント.エリアのタニヤ通りと似たものになるかもしれない。

パッポン通りをそのままに続けるのであれ、変えてしまうのであれ、中国系タイ人の典型であるパッポンパニッチ一族は少しの先見性とハードワークによりきっと成功を収めることだろう。


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